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賤ヶ岳合戦

羽柴秀吉と柴田勝家が、織田信長の後継者を競った
まさに天下分け目の戦い

約400年前、余呉湖を血で染めるほどの激しい戦いがここで繰り広げられました。
今はもう、その美しい余呉の風景の中に、戦いの爪あとを見出すことはない。
けれど、城跡や砦跡へと続く道を息を切らして登ると、山野を駆けて戦った武士たちの荒い息づかい、
鎧や具足の重みが伝わってきます。
残された石碑やゆかりの品々を目の当たりにすると、歴史の一場面が厳然と語りかけてきます。

「賤ヶ岳の合戦」と呼ばれるその戦いは、秀吉という人物を歴史のひのき舞台へと送り出しました。
そして、日本の歴史を語るとき、決して忘れることのできない時代の大きな節目を生んだのです。


(賤ヶ岳合戦の砦跡が今も残る・・・)

なぜ、戦いは起こったのか?

天正10年(1582)天下統一を進めていた織田信長は明智光秀が起こした本能寺の変で、その生涯を閉じました。
信長の訃報を知り、すぐに駆け付け山崎の合戦で光秀を討ったのは、織田家の筆頭家老の柴田勝家ではなく、羽柴秀吉でした。
そして信長の後継者問題が持ち上がります。
信長の三男・信孝を推す勝家に対して、信長の長男・信忠の長男でわずか3歳の三法師丸を跡目につけ、
リーダーシップを握りはじめる秀吉。
必然と対立していく二人は、ついに「賤ヶ岳合戦」へと発展していきます。

なぜ、秀吉が勝利したのか?

天正11年(1583)柴田勝家は北の庄城から木ノ芽峠を敦賀に出て、刀根越えで柳ヶ瀬に入ります。
そして内中尾山に本陣(玄蕃尾城)を築き、行市山から林谷山への尾根に砦を築きました。
秀吉は余呉湖を囲む形に砦を配置し、木ノ本・田上山に本陣を置きました。
互いのにらみ合いが続き、動き出したのは岐阜にいた信孝で、
これを討つために秀吉が岐阜に向かいました。
このすきに勝家の甥・佐久間盛政は大岩山・岩崎山を陥落させます。
盛政は「大岩山陥落後は直ちに陣地へ退く」という勝家のいいつけを聞かず、

さらに敵の懐深く、賤ヶ岳へと進んでしまいます。
岐阜の秀吉が戻るには時間がかかるとよんでいた盛政でしたが、
秀吉はすぐに引き返し、油断している盛政に総攻撃をかけます。
世にいう「秀吉の大返し」です。
この勢いに勝家軍は壊滅してしまいました。

(クリックで拡大します)

勝家の本陣にまで秀吉軍が進めます。ここにいたのは、勝家の身代わりとなった毛受勝助。
その隙に、勝家は北の庄へと帰城しました。
しかし、すでに勝家軍は壊滅しており、追ってきた秀吉の追撃に破れます。
勝家は妻のお市の方とともに自害して果てるのです。
こうして、信長に次いで天下の覇者となる道は秀吉の前に開けたのです。

 


武将の像(賤ヶ岳山頂)

賤ヶ岳山は眺望の優れた場所で余呉湖畔はもちろん、合戦の跡も一望することができます。
山頂のまわりには未だ土塁跡が残っていて、南側には伝令道が走っています。
明治11年(1878)に建てられた賤ヶ岳戦趾碑もあります。


毛受兄弟の墓                   中川清秀の墓

毛受兄弟は、兄を茂左衛門、弟を勝助といいます。勝家を越前へ落ち延びさせるため、
金の御幣の馬印を掲げて身代わりとなりました。秀吉も、主君の身代わりとなってここまで戦ったことに感動し、
その亡骸を手厚く葬り、僧に弔いを依頼したといわれています。

中川清秀の砦跡で佐久間盛政の奇襲にあい、奮戦したが、力及ばず全滅しました。
清秀100回忌を迎えた天和2年(1682)5代の孫・久恒がこの墓をたてました。

北国街道と賤ヶ岳の合戦~柴田勝家が開いた安土への最短軍用道

余呉から今庄に至る間には栃ノ木峠(標高538.8m)と椿坂峠(標高504.2m)と呼ばれる峠道があります。
この峠は大変な難所とされ、越前へ行くには、
多くの人が、柳ヶ瀬から刀根越で疋田に出て、、ここで西近江路から山中峠を越えてきた道に合流し、
敦賀に出て、さらに木ノ芽峠を越えて今庄に出ていました。
しかしこれでは椿坂峠を越える場合に比べ、2倍以上の回り道でした。

この栃ノ木と椿坂の峠道を切り開き、改修したのが柴田勝家です。
勝家は織田信長から越前に領土を与えられると、北の庄城の築城と並行して
信長の安土城へ続く最短距離の軍用道として整備しました。
この道は畿内から北陸に出る主要道となったのです。
この道は現在も国道365号線として健在しています。


(柳ヶ瀬関所関守の家門)

余呉庄合戦

「賤ヶ岳合戦場」というと、大音からリフトで上がる賤ヶ岳頂上へ行けば、古戦場へ足を踏み入れたと思われますが、
賤ヶ岳山頂自体は、それほど大きな役割を担ったわけではありません。
むしろ大岩山の方が激戦地の一つとして、江戸時代にはこの地を観光に訪れられていたそうです。
木之本から柳ヶ瀬に至る南北10㎞と余呉湖にわたる地域の線上として賤ヶ岳合戦を知ってもらいと思います。
もしかしたら、江戸時代の別名・「余呉庄合戦」が名としてはふさわしいのかもしれませんね。